レッド・アイ

 はじめて、人の死体に触れたのは11歳の時だった。当時、カナダのラングリーという小さな街に住んでいた私は「友達作り」という名目で教会に通っていた。そこでできた友人の父親が死んだ。思い出はほとんどない。日曜礼拝で牧師からもらった聖体を友人とフリスビーのように指で弾いて遊んでいたら「ふざけるんじゃない」と、めちゃくちゃ怒られたことぐらいしか記憶にない。

 男はぼんやりと棺の中に横たわっていた。肌が妙にくすんだ色をしていて「土気色って、こういう色のことをいうんだなぁ」と感心したのを覚えている。誰も見ていない隙を盗んで、軽く、頬に触れてみた。冷たく硬くなった肌は、美術の授業で使う厚紙のような手触りだった。

 「お父さんの肌って、いつもこんな感じなの? それとも死んでるから、こんなにザラザラしているのかな?」と、友達に聞いてみたかったが、グッタリと母親にもたれかかった彼はまだ涙を滂沱のごとく流していた。大勢の大人たちが彼らの周りを取り囲んでいていて、近づけそうになかった。

 大人たちは、みんな酒を持っていて、とても酔っ払っていた。私はピザとジンジャーエールを前に手をつけられないでいた。葬儀の時にガツガツ物を飲み食いするのはみっともない気がしたからだ。もう、夕方を通り越して夜にさしかかろうとしている時刻で、少し眠かった。早く家に帰って、本でも読みたかった。

 「いいやつだったのになぁ」と、私の隣に座っていたチェックのシャツを着た大柄な男が急に大声を出した。彼はビールとトマトジュースをちゃんぽんにしたドリンクを片手に持っていた。それをぐいっと飲み干して、また「いいやつだったのに」と言った。それはとても大きな声だったのに、私以外の人間は誰も彼のことなど気にしていないようだった。

 やがて、彼はフラフラとよろめきながら外に出ていった。晩秋の柔らかで微かな光の中で、彼がタバコに火を灯し、白い煙をゆっくりとフーッと吐き出すのをガラス越しに私はみた。

 

 「二日酔いの人って、目が真っ赤でしょ。迎え酒に飲むから〈レッド・アイ〉っていうんだって」

 経血のような色をしたカクテルの名前を教えてくれたのは、大学四年生の時にごく短い期間付き合っていた恋人だった。私よりだいぶ年下だったのに、酒にやたらと詳しい人だった。

 私たちはなぜかうまくいかなかった。「もう、わからなくなった」とだけ言い残して、恋人はある日、突然消えてしまった。「この人が望むなら、片腕を失ってもいいな」とさえ、初めて思えた相手だったのに。一緒に過ごした期間は3ヶ月と本当に短かったが、その記憶はだいぶ長い間、私のことを脅かし続けた。

 銀色の雨に濡れながら、街灯の下で交わしたキス。誰もいない川辺で夏風に吹かれながら聴いた、虫たちの声。その人は酔っぱらうと、そこにピアノがあれば必ず、リストを弾いた。「愛の夢」を泥酔しながらもごくごく真面目に弾く姿を、私はぼんやりと見ていた。とてつもなくクリシェなチョイスだな、と思いながら。窓の外では盛りを過ぎた椿が咲き誇っていて、恋人の弾くピアノが鋭い音を響かせるたびに熟れた花弁がポトンポトンと落ちるようだった。

 飛行機に乗ると、必ず私はトマトジュースとビールを注文して、レッド・アイを自分で作って飲む。その度に、死んだ人間の冷たさや地面に折り重なっていく真っ赤な花びらのことを思い出す。「あの頃に戻りたい」とか「やり直せたら」みたいな後悔はまったくない。そもそもそんな深い感傷に浸る間もなく、酒に弱い私はすぐに眠ってしまう。起きた時には、やることは山積みになっていて、思考の自由もない。

 今はまだ鮮烈に色や匂いを伴って思い出せる記憶も、いつかは鮮やかさを失ってしまうのだろうか。心を締め付けるこの甘やかな痛みと重みは年々強くなってきている気がするが。生きている限り魂は、居場所を探し続ける。その旅路の道中で出会う景色たちは、あまりにも美しい。磨耗することなく、鈍化することもなく、むき出しの皮膚のような魂を携えて移動し続けることは辛く苦しい。私は、どうやって生きているんだろう。

 今度の日曜日、教会に行ってみようかと思っている。例えば、私が死んだとして、死体の私のほっぺを思い切りつねってくれるような、誰かがそこにはいるだろうか。

イカ人参

 生臭いものが、昔はとにかく苦手でそれでずいぶんと苦労をしました。私の地元ではよろこばしいことがあると、なにかと魚介類をふるまうことになっています。とくに年末年始にはイカ人参、イクラの醤油漬け、豆数の子、ナマコの酢の物、アンコウ鍋など、たくさんの「ごちそう」が食卓にならびます。私はこれらのものが死ぬほど嫌いでした。匂いを嗅ぐだけでえづき、一度は祖母の前で癇癪を起こしてちゃぶ台の上に乗っていた料理を全てはたき落とし、激怒した母にヤギ小屋に閉じ込められました。私が泣きながら、ヤギの首を締めたために解放されましたが、そうでなかったら我が家の唯一の家畜を殺していたと思います。私の三つ下の妹は泣きながら怒り狂う私の姿を見て、怯えていました。  

 私の一家は女系家族で婿養子をとるのが伝統になっています。母には姉妹が3人。それぞれが所帯を持っていますが、全員が婿を取りました。別に家業もないので、名前を守る必要もないのですが、よくわからない伝統に逆らう理由もないので従っています。年末年始は祖父母が住む本家に集まります。普段から機会を得ては会ってるにもかかわらず、女たちはここぞとばかりにかしましく騒ぎ立てます。連れてこられた婿養子たちは、居間にちょこんと座って言いつけられる雑務をこなすために待機しています。普段から居心地悪そうに暮らしている男性たちですが、年末だからといってとくに労われることはなく、夕餉の準備のためにすげなく家から追いだされます。かれらはオンボロのミニバンと軽トラで、那珂湊あるいは久慈港まででかけて、魚をもって帰ってきます。

 母や叔母、祖母は、狭い台所で押し合いへし合いしつつ、下ごしらえに精をだします。女たちはお互いの尻を叩いたり腹についた脂肪をつまんだりしながら、下品で赤裸々なローカル・ゴシップで盛り上がります。そこで私は知りたくもない、祖母の初体験の年齢と戦時中の恋について聞くことになります。気持ちが悪いな、と、私は思います。かつて、アメリカの黒人女性たちは南北戦争時代、キルトを編みながらよもやま話に花を咲かせたそうですが、この話を大学の英米文学の授業で学んだとき、私はこの実家の風景を思いだしました。

 9歳になる頃、私も母や叔母たちにまじって調理の準備を手伝うようになりました。大量の数の子を冷たい水にさらし、茹でた豆の薄皮をむきました。あかぎれた手を石油ストーブにかざすと血が滲み、ひどく痛みました。私は魚卵の生々しい匂いと感触が頭からこびりついて離れず気分が悪くなり、洗面器一杯に雑煮を吐きだしながら年を越しました。母は「情けない子だねぇ」と、悲しそうな顔をして、私の頭を撫でました。妹は何も知らない様子で、ぐっすりと寝ていました。  

 高校を卒業したら、私は家をでるつもりでいました。大学に進学してもっと本を読みたかったのです。父はともかくとして、母が反対することはわかっていたので、私は内緒で準備を進めていました。しかしそう隠し通せるわけもなく、参考書や大学に提出する願書などが見つかり、母の知るところとなりました。  

 激怒した母は、私を占い師のところに連れて行きました。地域で何かトラブルや揉め事が起きると、まずこの占い師に相談して判断を仰ぐというのが私の集落のしきたりになっていました。私自身はその時まで一度も彼女に会ったことはありませんでしたが、彼女が盲目で90歳を超えた、村の生き字引のような存在ということは知っていました。Amazontwitterもすでに存在している時代の話ですが、こんな前時代的な制度がまだ驚くべきことに日本のどこかにはまだ残っているのです。  

 占い師は、大きな猫を抱えて出てきました。私たちの前に座った占い師は猫の絡まった毛を直しながら、母が語る話を聞きました。娘には地元で働いて欲しいこと、大学を行くにしても自分への相談が欲しかったこと、うちにそんな進学をさせるだけの金はないということ。母は大真面目にコンコンと話していました。最初はこんなバカなことがあるか、と、思っていた私でしたが、だんだんと面白くなってきてしまい、次は何が起きるのだろうとじっと黙って母と占い師の様子を伺っていました。

 長い長い母の話が終わるやいなや、占い師は口を開きました。「猫を見てごらん」。存在感のある声、存在感のある猫でした。占い師も年老いていましたが、その猫もかなりの老猫のようでした。長い毛が絡まっていて、雑種のようでしたが、その風雅な様子から希少な種類の猫にも見ようによっては見えました。猫は前足で眠たげに顔を洗っていました。特に自分の目が気になるようで、何度もなんども目の前の空を掻いていました。  

 「ほらねェ」。占い師は猫を撫でました。「猫メもこゥして泣いていますからねェ、きっと娘さんは止められないでしょうねェ……」。猫が泣いている。猫は泣いている? 猫が泣くのか、どうかは私にも母にもわかりませんでした。猫はしばらく、そうやって空を掻いていましたが、それに飽きるとゴロゴロと鳴きながら占い師の膝の上で体を丸めました。母は長いこと黙っていましたが、財布から3000円を取り出すと、それを叩きつけるように占い師の前に置いて、出て行きました。占い師は微動だにしませんでした。  

 その後、私は長崎の大学に進学しました。大学では英米文学を専攻し、特に黒人女性の権利運動と文学の関係について学びました。勉強は楽しく、海外の大学に留学することさえ考えていましたが、3年生の時に卒業を待たずに退学することになりました。娘ができたのです。当時の私は実家から解放された喜びから奔放に遊び狂っていました。飲み屋で知り合い、一度限りの関係を結んだ若い海上自衛隊員との間にできた子どもでした。妊娠の報告をした時、彼は遠洋練習航海でニカラグアのコリントにいました。何百キロも離れたところにいるとは思えないほど、クリアな音質で届けられた彼の声には動揺が滲んでいました。私は一人で娘を育てることを、その時、決めました。  

 今年の正月、私は何年ぶりかに、ふと懐かしくなり、イカ人参と豆数の子を見よう見まねで作って見ました。小学生になった娘も嬉しそうに「手伝う」と、数の子を塩水につけてくれました。娘は出来上がったイカ人参を見て一言「かわいい」と言いました。イカ人参をかわいいなんて思ったこともありませんが、鮮やかな朱色は確かに「かわいい」と言えるかもしれない。大晦日のバラエティ番組を観るとはなしに観ながら、私は数の子をひとかけらつまむと口に入れました。プチプチとした食感を確かめます。塩辛い汁が口の中で弾け、磯の香りがグッと鼻にのぼってきます。不思議と吐き気はしませんでした。私は、イカ人参を箸で乱暴に掴めるだけ掴むと、夢中で口いっぱいにほおばりました。